第九章 GNU 一般公衆ライセンス


1985年の春までにリチャード・ストールマンは、GNUプロジェクトの最初の有用な成果物を作り上げた。Unix風オペレーティング・システムのためのLisp版のEmacsである。自由ソフトウェアとして他の人々が利用できるように、それをリリースする方法を開発する必要があった。それは事実上Emacsコミューンの後継となるものだった。

改良する自由と著作者特権との間の緊張関係はGosmacs以前から高まっていた。1976年の著作権法は、アメリカの著作権法を見直し、著作権の法的保護をソフトウェアプログラムにまで拡大した。その法律のセクション102(b)によれば、今や、個人と企業は「プログラムに具体化した現実のプロセスまたは方法」に対してではなく、ソフトウェアプログラムの「表現」に対して著作権を持てるようになった[1]。

言い換えれば、これはプログラムを代数の教科書のように扱うものだった。その著者は教科書の著作権を主張できるが、代数の数学的アイデアやそれを説明するのに必要な教育的テクニックに対しては著作権を主張できない。かくして、オリジナルのEmacsのコードの使用についてストールマンが何と言っているかと無関係に、他のプログラマにはEmacsのアイデアとコマンドについて自分自身の実装を書ける法的資格があり、それを実装した。Gosmacsは、様々なコンピュータ・システムのために開発されたオリジナルEmacsの三十幾つかあった模造品の一つだった。

Emacsコミューンは、ストールマン自身が書いたオリジナルEmacsプログラムのコードにのみ適用された。もしもEmacsコミューンに法的強制力があっても、それは独立して開発された模造品、たとえばGosmacsには適用されなかっただろう。自由ソフトウェア運動の倫理的理想からすると、自由のないGosmacsの制作は非倫理的だった。なぜなら、(占有的ソフトウェアとして)それはユーザーの自由に敬意を払わないからだ。しかし、この問題はGosmacsの作者の理想とは無縁だった。

著作権の下では、既存のプログラムからコードをコピーしたいプログラマは(修正をともなう場合でさえ)オリジナル開発者の許可を手に入れる必要があった。ハッカーはたいてい知らなかったが、著作権表示がなくとも新法は適用された。そして著作権表示もまた現れ始めていた。

これらの表示をストールマンは占領軍の侵略の旗として眺めていた。過去のプログラムからソースコードを借りていないソフトウェアプログラムは稀だった。ところがアメリカ政府は、大統領の一筆の署名で、プログラムの再使用を禁じる法的な力をプログラマや会社に与えた。それはこれまで形式ばらないシステムだったものの中に、形式的要素を持ち込んだ。簡単に言えば、それまでハッカー間の論争で解決されたものが、今や弁護士間の論争で解決されるものになった。そんなシステムは、自動的に、ハッカーではなく会社に有利に働いた。著作権表示に個人名を記載してコードの品質に責任を負うのだと考える者もいたが、通常、著作権表示には会社名が記載されたし、書いたコードについて個人が発言するためには他の方法があった。

しかし、ストールマンは、GNUプロジェクトに到るまでの時期に、著作権は、著作権がカバーする一定の活動について寛大な許可を与えることができ、著作権に条件を置くこともできることに気付いた。「著作権表示付きの電子メールのメッセージに、ライセンスとして『そのままのコピーを許可する』としたものがあったんですが」とストールマンは回想する。「それでひらめいたんです。」これらのライセンスは、ライセンスの条件を除去しないこと、としていた。ここからストールマンのアイデアまで、あと数歩だった。たとえば、許諾条件は、ユーザーが修正版でさえ再配布することができ、かつ、それらは同じ許諾条件を持つようにすること、とすることが可能だった。

かくして、ストールマンは、著作権の利用は必ずしも反倫理的ではないと結論づけた。ソフトウェア著作権の駄目な点は、ユーザーに不可欠な自由を認めない著作権の典型的利用方法と利用法の設計にあったのだ。ほとんどの著作者は著作権を使う別の方法を想像することができなかった。しかし、著作権は別のやり方で使えた。それは、プログラムを自由にして、それが自由であり続けることを保証する利用方法だった。

1985年のGNU Emacs 16までに、ストールマンは著作権に基づくライセンスを起草したが、それはユーザーがコピーを作って配布する権利を与えるものだった。それはユーザーが修正版を作って配布する権利も与えたが、同じライセンスの下でのみ、そうすることできた。ユーザーは修正版に対して無制限の権力を行使することはできなかった。したがって、修正版をGosmacsがそうであったように占有的なものにすることはできなかった。そして、修正版もソースコードを入手可能にしなければならなかった。それらの条件は、部外秘的で自由のない修正版のGNU Emacsを出現させうる法的隙間を閉ざしていた。

Emacsコミューンの社会契約を成文化する役に立ったが、初期のGNU Emacsのライセンスは、GNUプロジェクトが目指すものとしてはまだ「非公式的」過ぎた、とストールマンは言う。自由ソフトウェア財団を設立してまもなく、財団の他の理事や、設立を手伝ってくれた弁護士と相談しながら、ストールマンは、ライセンスをさらに隙のないものにするための作業を開始した。

ボストンの著作権法の弁護士でストールマンに最初に法的アドバイスを提供していたマーク・フィッシャー(Mark Fischer)は、この時期にストールマンと交わしたライセンス論議を次のように回想している。「リチャードは、ライセンスがどんな働きをすべきかということでは非常に強い見解を持ってましてね」とフィッシャーは言う、「彼には、二つ原則があったんです。一つは、可能な限り、ソフトウェアを絶対的にオープンなものにするということ。(これを言ったとき、フィッシャーはオープンソース支持者たちに影響されていたように思う。決してストールマンはソフトウェアを「オープン」にすることを求めていたのではなかった。)もう一つは、他人にも同じライセンスを採用するように奨励するということです。」ライセンスの要件は第二のゴールのために設計されていた。

この最後の条件の革命性が十分に理解されるまでには、いくらか時を要した。当時、とフィッシャーは言う、GNU Emacsライセンスを彼は単に普通の取引と考えていた。それはGNU Emacsの使用に値札をつけていた。ストールマンはユーザーに、お金ではなく、彼らが後に加える修正にアクセスできることを要求した。そうは言っても、フィッシャーは、契約条項のユニークさを思い起こす。

「他人にこういう対価を受け入れるように求めるのは、唯一じゃないとしても、当時は非常に珍しいことだったと思います」と彼は言う。

GNU Emacsライセンスを作るにあたって、ストールマンはかつてのEmacsコミューンの非公式な主義に大きな変更を一つ加えた。かつてはコミューンメンバーに彼らが書いたすべての変更を送るように要求した個所で、今やストールマンは、プログラムの再配布を選択したときに、必ずソースコードと自由の告知をすることを要求しただけだった。言い替えれば、自家用の修正をEmacsに加えただけのプログラマは、もうストールマンにソースコードの変更を送り返す必要がなかった。自由ソフトウェアの教義のめったにない変更にあたって、ストールマンは、自由ソフトウェアの値段を切り下げることにした。どのコピーにも所持者がコピーをさらに開発して再配布する許可が付いている限り、ユーザーは肩越しに覗くストールマンぬきでイノベーションをすることができ、彼らが望むときにだけ彼らの修正版を再配布してよいことになった。

この変更は、初期のEmacsコミューンの社会契約のビッグブラザー的側面に自分自身満足していなかったことが原因だった、とストールマンは言う。変更を彼に送るのは全員にとって有益だとは分かっていたが、これを要求することは不平等だと感じるようになった。「みんなにすべての変更を発表するように求めるのは間違っていました」とストールマンは言う。

「一人の特権的な開発者に変更を送るように求めるのは間違っていました。そんな集権化と一人のための特権は、全員が平等の権利を持つ社会と調和しないんです。」

GNU Emacs一般公衆ライセンスは、GNU Emacsの1985年版でデビューした。リリース後、ストールマンはライセンスの文言をどう改善したらいいかに関する一般のハッカーコミュニティからの入力を歓迎した。この提案を取り上げたハッカーの一人に、後のソフトウェア活動家で、当時サン・マイクロシステムズのコンサルタントとして働いていた、ジョン・ギルモア(John Gilmore)がいた。ギルモアはコンサルタント業務の一環として、EmacsをUnixの企業内バージョンであるSunOSに移植していた。ギルモアはそうする過程で、GNU Emacsライセンスの要求に従って変更を公表した。ギルモアは、ライセンスを負担と見るのではなく、ハッカー精神の明瞭で簡潔な表現と見ていた。「それまで、ほとんどのライセンスは非常に非公式なものでした」とギルモアは振り返っている。

この非公式ぶりの例として、ギルモアは、Unixのユーティリティ、trnの1980年代中ごろの著作権ライセンスを引用する。trnは、後にUnixのpatchユーティリティとスクリプト言語Perl(パール)の作者として有名になるハッカー、ラリー・ウォール(Larry Wall)が書いたニュースリーダ・プログラムである。通常のハッカーの礼儀と、商用に公表する方法を指図する作者の権利との均衡をとるために、ウォールは、プログラムに添える著作権表示を意見表明の手段として利用した。

Copyright (c) 1985, ラリー・ウォール
これで金儲けするとか、これを自分が書いたふりをしない限り、trnキットの全部または一部をコピーできる。[2]

こういう表現はハッカー倫理の反映だが、倫理のゆるやかで非公式な性質を、著作権という厳密で法律的な言葉に翻訳することの難しさも反映していた。GNU Emacsライセンスを書くときに、ストールマンは占有的派生品をつくる抜け道をふさぐ以上のことをした。彼は、法律家にもハッカーにも同じように理解できる仕方で、ハッカー倫理を表現したのだ。

まもなく、とギルモアは言う、他のハッカーが自分のプログラムにGNU Emacsライセンスを「移植」する方法を議論し始めた。ユーズネットでのやりとりに刺激されて、1986年11月、ギルモアはストールマンに修正を提案するメールを送った。

たぶん、ライセンスから"EMACS"を削除し、「ソフトウェア」とか何か別の名前で置き換えるべきです。遠からず、と希望しますが、EmacsはGNUシステムの一番大きな部分ではなくなり、このライセンスがGNUシステム全体に適用されることになるでしょうから[3]。

もっと一般的なアプローチをするように提案してきたのはギルモアだけではなかった。1986年の暮までに、ストールマン自身、GNUプロジェクトの次の大きな一里塚であるソースコードデバッガー、GDBにとりかかっていた。このリリースのため、彼は、GNU EmacsにかわってGDBに適用できるようにEmacsライセンスを修正する必要があった。大仕事ではなかったものの、間違いを犯す可能性があった。1989年、ストールマンはEmacsへの個別的言及をとり除き、プログラム・コードとライセンスとの関係をプログラムのソースファイルの中だけで表現する方法を思いついた。このやり方なら、どのプログラマもライセンスを変更せずに、自分のプログラムにライセンスを適用することができた。GNU一般公衆ライセンス(The GNU General Public License)、略してGPLの誕生だった。GNUプロジェクトは、まもなくそれを既存の全てのGNUプログラムの公式ライセンスにした。

GPLの公表にあたって、ストールマンは、小さな変更を示すために小数を使い、大きな変更を示すために整数を使うというソフトウェアの慣習に従った。1989年の初版は、バージョン1.0とされた。このライセンスには、その政治的な狙いを詳しく説明した次のような前文がついている。

GNU一般公衆ライセンスは、以下のことを保証するように設計されています。あなたが自由なソフトウェアのコピーを譲渡または販売する自由を持つこと、あなたがソースコードを受け取る、または、欲しいときにソースコードを入手できること、あなたが本ソフトウェアを変更できる、または、新しい自由なプログラムの中でその一部を使えること、そして、あなたにこれらのことができることを知らせること。

あなたの権利を守るためには、誰かがあなたにこれらの権利を拒否したり、放棄を求めたりすることを禁ずるように制限をかけることが必要になります。これらの制限により、本ソフトウェアのコピーを配布するとき、またはそれを変更するとき、あなたは一定の責任を負うことになります。[4]

ハックが進むにつれ、GPLはストールマンの最高傑作の一つになった。それは通常は占有的な著作権法の制約の中に、共有的なシステムを創り出した。また、さらに重要なのは、法典(リーガル・コード)とソフトウェア・コードの間にある知的類似性を実証したことだ。GPLの前文には、暗黙裏に深いメッセージが込められている。ハッカーは著作権法を疑わしいものと見るのではなく、危険なシステムだがハック可能なものと見るべきだ、ということだ。

「GPLは、大コミュニティを持つ自由ソフトウェアによく似た発展をしました。コミュニティは、ソフトウェアの構造や、賛成意見と反対意見、また広く支持されるための微調整や穏健に妥協する必要性さえ議論します」と、ジェリー・コーエン(Jerry Cohen)は言う。彼は、フィッシャー亡きあとストールマンに助言したもう一人の弁護士だ。「このプロセスは非常に良く機能しまして、GPLは、幾つかのバージョンを経ながら、広範囲の懐疑的な、時には敵意ある反応を受けるものから、広範囲の支持を受けるものへと変わっていきました。」

1986年のBYTE誌とのインタビューで、ストールマンは面白い言葉でGPLを要約した。ハッカーの価値観を賛美することに加えて、ストールマンは言う。読者は、「それを知的な柔術の型としても見るべきなんです。ソフトウェアを買い占める人達がつくった法体系を、それに対抗するために使うんですから。」[5]後年、ストールマンは、もう少しとげのない言葉でGPLの創造について語っている。「ぼくは、ある意味で倫理的な、ある意味で政治的な、ある意味で法律的な問題を考えていました」と彼は言う。「ぼくらがその中にいる法体系によって持続できることを試みる必要がありました。気持ちとしては、この仕事は新しい社会の基礎となる法律を制定することなんですが、ぼくは国じゃないから、実際に法律を変えることはできません。こうしたことのために設計されていない既存の法体系の上に増築することで、これを試みる必要がありました。」

自由ソフトウェアに関わる倫理的、政治的、法的問題をストールマンが考えている頃、ドン・ホプキンス(Don Hopkins)というカリフォルニアのハッカーが、彼に68000マイクロプロセッサーのマニュアルを郵送してきた。UnixハッカーでSFマニア仲間のホプキンスは、ストールマンからそのマニュアルを借りていたのだ。ホプキンスは感謝のしるしに地元のSF大会で入手したステッカーをたくさん貼って返信封筒を飾っていた。そのステッカーの一枚が、ストールマンの目にとまった。そこには、"Copyleft (L), All Rights Reversed"とあった。ストールマンはステッカーにヒントを得て、GNU Emacsライセンスで(そして後にGPLで)使われた法的テクニックに「コピーレフト」という愛称をつけた。ユーモラスな、丸に逆向きのCがそのシンボルだ。時とともに、その愛称は、「あるプログラムを自由ソフトウェアにし、そのプログラムを修正・拡張した版も同じように自由ソフトウェアにすることを要求する」著作権ライセンスの手法全般を表現する自由ソフトウェア財団の専門用語になった[6]。

かつてドイツの社会学者、マックスウェーバーは、すべての偉大な宗教はカリスマの「ルーチン化」と「制度化」の上に成り立っていると唱えた。すべての成功した宗教は、カリスマまたは初代宗教指導者のメッセージを文化や時代を超えて容易に翻訳可能な、社会的、政治的、倫理的な装置に転換する、とウェーバーは論じた。

本来、宗教的なものではないが、GNU GPLは、ソフトウェア開発という現代的で分権的な世界で機能しているこの「ルーチン化」プロセスの興味深い実例に確かにふさわしい。その公開以来、他の点ではストールマンに少しも忠誠心を表明しないプログラマや企業がGPLの取引を額面通りに喜んで受け入れてきた。何千人もが自身のソフトウェアプログラムの先制的防御メカニズムとしてGPLを受け入れている。GPLの条件を制約が強すぎるとして拒絶する者でさえ、その影響力を認める。

キース・ボスティック(Keith Bostic)は、後者のグループに属するハッカーの一人で、GPL 1.0がリリースされたときはカリフォルニア大学の職員だった。ボスティックの所属部署、コンピュータシステム研究グループ(CSRG)は、1970年代後半からUnixの開発に関わり、現代のインターネット通信の土台になるTCP/IPネットワークプロトコルを含む、多くの主要部品に責任を持っていた。1980年代の終り頃になって、Unixソフトウェアの最初の保有者であるAT&TはUnixの商品化に力を入れ始め、ボスティックと彼のバークレーの同僚が開発しているUnixのアカデミックバージョン、BSD(バークレー・ソフトウェア・ディストリビューション)を、商業的テクノロジーの主要な源泉として期待し始めていた。

ボスティックと友人達によって書かれたコードは、ほとんど誰にとっても使用禁止状態だった。占有的なAT&Tのコードと混ざり合っていたからだ。その結果、バークレー・ディストリビューションは、AT&TからUnixのソースコードライセンスをすでに取得した施設だけが利用できた。(学問的世界のみを考えている人々にとって)最初は無害に見えたこの仕組みは、AT&Tがライセンス料を値上げしたとき、だんだん重荷になった。バークレーのコードをGNUで使うために、ストールマンは、それをAT&Tのコードから切り離し、自由ソフトウェアとしてリリースするようにバークレーを説得する必要があった。1984年または1985年に、彼は奮闘するBSDのリーダーたちと会い、AT&Tは慈善事業ではなく、大学がその成果を(事実上)AT&Tに寄付するのはふさわしくないと指摘した。彼はコードを取り出して自由ソフトウェアとしてリリースしてくれるように頼んだ。

1986年に雇われて以来、ボスティックには、デジタル・イクイップメント社のPDP-11に最新版のBSDを移植する個人プロジェクトを引き受けていた。ちょうどこの頃、とボスティックは言う、たまたま西海岸に遠征してきたストールマンと親密に交流するようになった。「ストールマンと著作権の議論をしたことを鮮明に覚えています。ストールマンは、CSRGで借りたワークステーションの前に座っていました」とボスティックは言う。「それからディナーに行きましたが、ディナーの最中も著作権について議論を続けました。」

ストールマンの好む形にはならなかったが、その議論は最終的に実を結んだ。1989年6月、バークレーは、そのネットワークコードをAT&Tの保有するOSの残り部分から切り離し、著作権をベースにした自由なライセンスで配布し始めた。そのライセンスの条件は寛大だった。すなわち、ライセンスをうけるすべての人は、派生的プログラムを広告するときは、カリフォルニア大学のクレジットを出すこと[6]。GPLとは対照的に、占有的な派生物は許可された。一つの問題がライセンスの利用を制限した。BSDネットワーキング・リリースは、完全なオペレーティング・システムではなく、ネットワーク関連の部分に過ぎなかったのだ。そのコードは、全ての自由なオペレーティング・システムに対する大きな貢献であったにもかかわらず、それを走らせるには、他の占有的なライセンスのコードと一緒にしなければならなかった。

それから数年間、ボスティックと他のカリフォルニア大学の職員は、足りない部品を置き換えてBSDを完全な、自由に再配布可能なオペレーティング・システムにするために働いた。Unixのコードを所有するAT&Tの子会社、ユニックス・システムズ・ラボラトリーが法的な異議を出して遅れたが、努力は、1990年代の初めに結実した。しかし、それ以前から、多数のバークレーのユーティリティがストールマンのGNUシステムに貢献していた。

ボスティックは回想して言う、「GNUの刺激がなかったら、実際にやったほど力を入れて進めることはなかったと思います。彼らが熱心に活動している領域が重要なのは明白だったし、ぼくらは、そのアイデアが好きだったんです。」

1980年代終りには、GPLは、自由ソフトウェアのコミュニティに重力効果を及ぼし始めた。BSDネットワーク・ユーティリティの事例に見られるように、自由ソフトウェアと認められるのにライセンスをGPLにする必要はなかったが、プログラムをGPLの下に置けば明確なメッセージが送られることになる。「GPLがあったから、みんなが自分たちが作っているのが自由なソフトウェアなのかどうか、どんなライセンスにするか、をとことん考えるようになったと思う」とブルース・ペレンス(Bruce Perens)は言う。彼は、Unixの人気のユーティリティ、エレクトリック・フェンスの作者で、後のDebian GNU/Linux開発チームのリーダーだ。GPLのリリースから数年後、ストールマンの弁護士審査済みライセンスを支持して、自家製のエレクトリック・フェンスのライセンスは捨てることにしたとペレンスは言う。「それは実際とても簡単でした」とペレンスは回想する。

リッチ・モーリンは、ストールマンが最初にGNUをアナウンスしたときいくらか懐疑的に見ていたプログラマだったが、GPLの傘の下に集まり始めたソフトウェアに強い印象を受けたと回想している。SunOSユーザーグループのリーダーとして、1980年代のモーリンの主な任務の一つは、最良のフリーウェアか自由ソフトウェアのユーティリティを収録したディストリビューションテープを発送することだった。その仕事をしていると、プログラムの原作者に、プログラムは著作権が設定さているのか、それともパブリックドメインに委ねられているのか、確認の電話をかけねばならないことがしばしばだった。1989年頃、一番優れたソフトウェアプログラムはいつも決まってGPLのライセンスを採用していることに気付き始めたとモーリンは言う。「ソフトウェアのディストリビュータとして、GPLという言葉を見たら、これは楽勝だとわかりました」とモーリンは回想する。

Sunユーザーグループのためにディストリビューションテープをまとめる手間の埋め合わせに、モーリンは受取人に手数料を請求していた。だが、GPLを採用したプログラムの場合には、モーリンは突然以前の半分くらいの時間でテープをまとめられるようになり、かなりのもうけが出るようになった。商機を感じて、モーリンは自分の趣味にビジネスとしての新しい名前をつけることにした。名付けて、プライムタイム・フリーウェアと言う。

そういう営利的利用は、自由ソフトウェアの課題と全然矛盾しない。「私たちがフリーなソフトウェアと言うとき、それは自由(フリーダム)について語っているのであって、価格のことではありません。」GPLの前文の中でストールマンはそうアドバイスした。1980年代の終わり頃、ストールマンはそれをもっと簡単で覚えやすい形に洗練した。「フリービール(ビール無料)のフリーだと考えずに、フリースピーチ(言論の自由)のフリーだと思ってください。」

大部分の企業は、ストールマンの嘆願を無視した。しかし、何人かの起業者にとって、自由ソフトウェアが意味する自由は、自由市場の意味の自由だった。ソフトウェア所有権を商業的方程式からはずせば、最小のソフトウェア会社でも、世界のIBMやDECと自由に競争できる状況が生まれた。

この考え方を理解した最初の起業者の一人がマイケル・ティーマン(Michael Tiemann)だ。彼はソフトウェアプログラマでスタンフォード大学の大学院生だった。1980年代のティーマンは、お気に入りのアーチストの後に続こうとする野心的なジャズミュージシャンのようにGNUプロジェクトについていった。しかし、1987年にGNU CコンパイラつまりGCCがリリースされる頃には、自由ソフトウェアの潜在力を全面的に理解し始めていた。GCCを「爆弾」と呼ぶティーマンは、このプログラムの存在自体がストールマンのプログラマとしての決意を物語っていたと言う。

「ちょうど、どの作家も偉大なアメリカの小説を書くことを夢見るように、1980年代のプログラマは偉大なアメリカのコンパイラを書くことについて語っていたんだ」とティーマンは回想する。「突然、ストールマンはそれをやってしまった。恐れ入った。」

「君は、一つだけ欠けていた物の話をしているけど、GCCがそれだった。」とボスティックも繰り返す。「当時、GCCができるまでは、誰もコンパイラなんて持ってなかったんだ。」

ティーマンはストールマンと競うより、彼の仕事の上に増築することに決めた。GCCのオリジナルバージョンのコードは、110,000行もあったが、プログラムは驚くほど理解しやすいものだった、とティーマンは回想する。事実、とてもやさしかったので、5日足らずでマスターし、もう一週間かけてソフトウェアを新しいハードウェアプラットフォーム、ナショナル・セミコンダクターの32032マイクロチップに移植した、とティーマンは言う。それから一年間、Cと並んでC++も扱えるようにGCCを拡張することで、C++プログラム言語の最初の「ネイティブ」、つまり直接的なコンパイラをつくろうとして、ティーマンはソースコードをいじっていた。(既存のC++言語の占有的実装は、C言語に変換してから、次に、その結果をCコンパイラに食わせるものだった。)ある日ティーマンは、ベル研でこのプログラムについてレクチャーをしたとき、同じ事を達成するために奮闘しているAT&Tの開発者に出会った。

「部屋には、四、五十人の人がいて、何人がネイティブコードのコンパイラに取り組んでいるのか聞いてみたんだ」とティーマンは回想する。「主催者は、その情報は秘密だけど、部屋を見渡せばある程度のことはわかるだろう、って言うんだ。」

頭の中で電球がぱっと明るくなるのにそう時間はかからなかった、とティーマンは言う。「六ヶ月間そのプロジェクトに取り組んでいたところだった」とティーマンは言う。「密かに思ったんだ。私かコードの能力は、自由な市場が報酬をくれるレベルまで来てるぞって。」

ティーマンは、GNU宣言の中にさらにインスピレーションを感じた。宣言は、占有的ソフトウェアベンダーの貪欲を激しく非難する一方で、会社が消費者の自由を尊重するという前提で、企業活動にあたって自由ソフトウェアを使用し、再配布することを奨めていた。GPLは、商業的ソフトウェアの問題から独占の力を取り除くことによって、小さな会社でもサービスに基づいて競争できるようにする。サービスは単純な技術支援から特定のクライアントの必要に応じて自由なプログラムを拡張するためのトレーニングまで幅広い。

1999年のエッセーで、ティーマンはストールマンの宣言の衝撃を回想している。「それは社会主義者の議論のようにも読めるが、私には別のものが見えた。ビジネスプランが潜んでいるのが見えたのだ。」[7]

このビジネスプランは新しいものではなかった。80年代後半に、ストールマンは小規模にこれをやることで自分の生活を支えていた。しかし、ティーマンはそれを新しいレベルに持って行こうとしていた。ティーマンはジョン・ギルモアとデヴィッド・ウォレス(David Vinayak Wallace)とチームを組み、GNUプログラムのカスタマイズに特化したソフトウェアのコンサルティングサービスを立ち上げた。シグナスサポート(Cygnus Support)と称するその会社が("Cygnus"は、非公式的に、"Cygnus, Your GNU Support"の再帰的頭字語だった)、最初の開発契約にサインしたのは1990年2月のことだ。その年の暮には、会社はサポートと開発契約で725,000ドル相当の財産を手にしていた。

ストールマンが構想した完全なGNUオペレーティング・システムはソフトウェア開発ツール以上のものを必要としていた。1990年代に、GNUはコマンドライン・インタープリター、すなわち、「シェル(Shell)」も開発した。それはボーン・シェルを拡張して置き換えたものだ(FSFの職員のブライアン・フォックス(Brian Fox)が書き、ストールマンがBourne Again ShellすなわちBASHと命名)。加えて、PostScriptのインタープリターGhostscript、文書ブラウザのプラットフォームとなるTexinfo、プログラムを走らせ、システム・カーネルとやりとりするためにC言語のプログラムが必要とするC Library、表計算ソフトのOleo(「高価な表計算ソフトよりもっといい」)があり、さらに、かなり良いチェス・ゲームさえあった。しかし、たいていプログラマは、GNUプログラミング・ツールに最も関心があった。

GNU Emacs、GDB、GCCは、開発者向けツールの「ビッグスリー」だが、GNUプロジェクトが80年代に開発したのはそれだけではない。1990年までに、ビルド・コントローラーのMake、パーサー・ジェネレーターのYACC(Bisonと改名)、awk(gawkと改名)を作り、さらに数ダースのプログラムを作った。GCCと同様、通常GNUプログラムは、一つのベンダーのプラットフォームだけでなく、様々なシステムで走るように設計されていた。プログラムをより柔軟にしていく過程で、ストールマンと彼の協力者たちはしばしばそれらをより実用的なものにした。

GNUの普遍主義的アプローチを回想して、プライムタイム・フリーウェアのモーリンは、GNU Helloという非実用的だが極めて重要なソフトウェアパッケージを指摘する。それはプログラマーにとってGNUのためのプログラムの正しいパッケージの方法のお手本として役立つものだ。「Cで書かれた5行のhello worldプログラムなんですけど、まるでGNUディストリビューションみたいにパッケージされていたんです」とモーリンは言う。「だから、それにはTexinfoやconfigureの資材があり、パッケージを様々な環境にスムーズに移植できるようにするためにGNUプロジェクトが提供するその他のソフトウェアエンジニアリング用の付随物を備えていました。それは途方もなく重要な仕事で、すべての[ストールマンの]ソフトウェアに影響しているだけでなく、GNUプロジェクトの他のすべてのソフトウェアにも影響しています。」

ストールマンによれば、自由ソフトウェアに置き換えることが第一で、Unixのコンポーネントの技術的改良は二義的なことだった。「各構成要素について、ぼくはそれを改良する方法を見つけることもあるかもしれませんし、見つけないこともあるでしょう」とストールマンはBYTE誌に語っている。「ぼくは、ある程度まで再実装から利益を得ています。再実装すると大抵のシステムはずっと良くなるんです。それは、ある程度まで、ぼくがこの分野に長いこといて、他の多くのシステムでも仕事をしてきたからだと思います。だから、[そこから学んだ]沢山のアイデアを持ち込めるんです。」[8]

だが、1980年代の終わり頃にGNUツールが有名になるにつれて、AIラボで磨かれたストールマンの設計の潔癖さの評判は、あらゆるソフトウェア開発コミュニティの伝説になった。

1980年代の終わり頃のSunユーザーで、1990年代には自身の自由ソフトウェアのプロジェクト、Sambaを運営する運命にあったジェレミー・アリソン(Jeremy Allison)は笑いながらその評判を回想してくれた。アリソンは、1980年代の終わり頃にEmacsを使い始めた。プログラムのコミュニティ開発モデルに刺激されて、とアリソンは言う、ソースコードの断片を送ったけれども、ストールマンに却下されただけだった。

「Onionの見出しみたいだったね」とアリソンは言う。「『子供がお祈りをすると、神が答えて言った:駄目』ってね。」

GNUプロジェクトはユーザーレベルのプログラムやライブラリの作成では次々に成功を納めていたが、カーネルの開発は先延ばしにしていた。カーネルは、プロセッサやマシンのリソース全体への他のプログラムのアクセスを制御する「交通警官」プログラムだ。

他の幾つかの大きなシステム・コンポーネントのように、ストールマンは、採用できる既存のプログラムを見つけてカーネル開発を素早く立ち上げようとした。1980年代末のGNUプロジェクトのレヴュー、「グニュース・レターズ」は、PastelからGCCを造ろうとした初期の試みのように、このアプローチにはいろいろ問題があったことを示している。1987年1月のグニュースレターは、GNUプロジェクトはMITで開発されたUnixカーネル、TRIXのオーバーホールをするつもりだと報じていた。しかし、ストールマンは実際には、これを試みなかった。この頃は、GCCに取り組んでいたからだ。後に、彼はTRIXは良い出発点にするには余りに多くの変更を必要をとすると結論づけた。1988年2月のニュースレターによると、その月までに、GNUプロジェクトはカーネルの計画を、カーネギーメロン大学で開発された軽量の「マイクロカーネル」、Mach(マーク)に移行させていた。Machは当時、自由ソフトウェアではなかった。しかし、その開発者たちは、非公式に、それを自由なものにすると言っていた。1990年に実際そうなると、GNUプロジェクトのカーネル開発を現実に開始することができた[9]。

カーネル開発の遅れは、この時期、ストールマンにのしかかっていた多くの懸念の一つに過ぎなかった。1989年、ロータス・デベロップメント・コーポレーションは、人気の表計算プログラム、ロータス1-2-3のメニューコマンドをコピーしたという理由で、ライバルのソフトウェア会社、ペーパーバック・ソフトウェア・インターナショナルとボーランドに対する訴訟を起こした。ロータスの訴訟は、アップルとマイクロソフトの「ルックアンドフィール」の戦いとともに、GNUシステムの未来を危険なものにしていた。どちらの訴訟もGNUプロジェクトを直接に攻撃しているものではなかったが、多くのGNUプログラムがそうであるような、既存のプログラムと互換性のあるプログラムを開発する権利を脅かしていた。これらの訴訟はソフトウェア開発文化全体にぞっとする効果(chilling effect)を及ぼしかねなかった。何とかすべきだと決心したストールマンと数人の教授はThe Tech(MITの学生新聞)に広告を載せ、その訴訟を非難して、ロータスとアップル両者のボイコットを呼びかけた。彼は、訴訟をしている会社に抗議するグループの組織化に手を貸して、広告をフォローアップした。プログラミングの自由同盟と名乗ったそのグループは、ロータス社のオフィスの外で抗議行動を行った。

これらの抗議行動は注目に値した[10]。

これらはソフトウェア産業が進化していく性質を持っていることの記録になっている。企業の主戦場は、いつのまにかオペレーティング・システムからアプリケーションに置き換っていた。自由ソフトウェアのオペレーティングシステムを造ることを追求しながら、未だに実現されていないために、流行と成功が一番の価値観になっている人々からすれば、GNUプロジェクトは絶望的に時代遅れに見えた。ストールマンが「ルックアンドフィール」訴訟との戦いに献身するまったく新しいグループを集める必要性を感じている事実そのものが、一部の観察者の目にはFSFは時代遅れだと考えさせるものに映った。

しかしながら、ストールマンが、ソフトウェア開発に対する独占企業の新たな押し付けと戦うために、別の組織をスタートさせたのには戦略的理由があった。そうすれば、占有的ソフトウェアの開発者もそれに加わるだろう。著作権をインターフェースをカバーするものに拡大することは、多くの自由ソフトウェア開発者と並んで多くの占有的ソフトウェア開発者を脅威にさらす。これらの占有的ソフトウェア開発者が自由ソフトウェア財団を支持することはありそうにないが、プログラミングの自由同盟には、ことさら彼らを追い払うようなものは何もなかった。同じ理由から、それがものになりそうになると、ストールマンはプログラミングの自由同盟のリーダーシップをすぐに手放した。

1990年に、マッカーサー財団(the John D. and Catherine T. MacArthur Foundation)がストールマンにマッカーサー・フェローシップを与えることで、彼を天才と認定したことから、ストールマンはいわゆる「ジーニアス(天才)助成金」を受け取ることになったが、この場合には5年間で総額24万ドルだった。財団は受賞理由の声明を出さなかったが、これはGNUプロジェクトを立ち上げ、自由ソフトウェアの哲学を提唱したことに贈られたものとして理解された。賞金はストールマンを当面の幾つかの心配事から解放した。たとえば、それは80年代に彼の収入源だったコンサルティングの仕事をやめて自由ソフトウェアの大義にもっと専念することを可能にした。

受賞はストールマンが正常に投票登録できるようにもしてくれた。ストールマンは1985年に住んでいた家が火事にあって公式の住所を失ったままになっていた。また、火事は彼の本の大半を灰で覆ってしまった。これらの「不潔な本」をクリーニングしてみたが元通りにはならなかった。そのとき以来、ストールマンはテクノロジー・スクエア545の「不動産占拠者(squatter)」として生活していたが、投票は「家のない人(homeless person)」としてせざるを得なかった[11]。「[ケンブリッジ選挙委員会は]それをぼくの住所と認めたがらなかったんです」とストールマンは回想している。「マッカーサー助成金の新聞記事がそのことを書いたら、ぼくは登録されたんです。」[12]

最も重要なことは、マッカーサー・フェローシップがストールマンにプレスの関心を引き、講演に招かれるようになったことで、彼はそれを使って、GNUと自由ソフトウェア、「ルック・アンド・フィール」訴訟やソフトウェア特許の危険性に関する言葉を広めた。

興味深いことに、GNUシステムの完成は、これらの旅行の一つに端を発している。1991年の4月にストールマンは、フィンランドのヘルシンキ科学技術大学を訪れた。聴衆の中に、21歳のリーナス・トーバルズがいた。彼は、リナックス・カーネルを開発し始めようとしていた。GNUシステムに残っていた最も大きな隙間を埋める運命にある自由ソフトウェアのカーネルだ。

この時、すぐそばにあるヘルシンキ大学の学生だったトーバルズは、ストールマンをぼんやり眺めていた。2001年の自伝『それがぼくには楽しかったから』の中で、トーバルズは、「ぼくは初めて、型どおりに長髪で髭をはやしたハッカーの典型を見た。ヘルシンキにはあまりいない人だった」と回想している[13]。

ストールマンの論題の「社会政治的な」側面はピンとこなかったが、トーバルズは論題の基底をなす論理の一面を高く評価した。エラーのないコードを書くプログラマはいない。ユーザーに、プログラムを自分特有の好みに合わせるつもりがない場合でも、改良ならどんなプログラムでも利用することができる。ソフトウェアを共有することでハッカーは、貪欲やエゴの防衛といった個人的動機より、プログラムの改良を優先する。

トーバルズは同世代の多くのプログラマと同様、IBM 7094のようなメインフレームコンピュータではなく、雑多な取り合わせの自家製コンピュータで爪を研いでいた。トーバルズは、一大学生として、大学のマイクロVAXを使いながら、PCプログラミングからUnixプログラミングへと進んでいった。この段階的前進は、マシンアクセスへの障害に関してトーバルズに別の展望を与えた。ストールマンにとって、主な障害は官僚主義と特権だった。トーバルズにとって、主な障害は地理とヘルシンキの厳冬だった。自分のUnixのアカウントにログインしたいだけなのに、ヘルシンキ大学まではつらい道のりを歩かないといけなかった。そこですぐ、トーバルズはキャンパスから離れたアパートの暖かい部屋からログインする方法を探し始めた。

トーバルズはMinix(ミニックス)を使っていたが、それはオランダの大学教授、アンドリュー・タネンバウム(Andrew Tanenbaum)が教育的手本として開発した軽量の自由でないシステムだった[14]。それは自由でない自由大学コンパイラ・キットに加えて、タネンバウムが1983年にストールマンを馬鹿にしたように誘って書かせようとした類いのユーティリティを含んでいた[15]。

Minixは、トーバルズの386PCのメモリーの限界内に収まったが、実用というより教材用だった。Minixシステムは、ターミナル・エミュレーションの機能を欠いていたが、ターミナル・エミュレーションは典型的なディスプレイ・ターミナルをまねて、トーバルズが自宅からマイクロVAXにログインすることを可能にするものだった。

1991年初頭に、トーバルズはターミナル・エミュレーションのプログラムを書き始めた。彼は自分のエミュレータの開発にMinixを使ったが、エミュレータはMinixでは走らなかった。それは、スタンドアローン・プログラムだった。次に、彼はそれにMinixのファイルシステムにあるディスク・ファイルにアクセスする機能を与えた。その頃、トーバルズは彼の開発中の作品を「ターミナル・エミュレーション・プログラムのGNU/Emacs」と呼んでいた[16]。

Minixが多くの重要な機能を欠いていたので、トーバルズは、彼のターミナル・エミュレータをMinixカーネルに匹敵するものへと拡張し始めた。ただし、それはモノリシックだった。彼は意欲的に、Minixのニュースグループに、Unix互換カ−ネルの標準仕様である、POSIX(ポジックス)標準のコピーを求めた[17]。数週間後、カーネルとGNUプログラムの幾つかをまとめ、それらが一緒に動作するように調整して、トーバルズはメッセージをポストした。それは1983年のストールマンの最初のGNUのポストを彷彿とさせた。

minix を使っているみなさん、こんにちは。

いま386(486)互換機用に(自由な)オペレーティング・システムを作っています(ただの趣味なので、GNUのように大きく、専門的なものにはならないでしょう)。四月から暖めてきましたが、ようやく準備ができてきたところです。minixの好きなところ/嫌いなところを教えてもらえませんか。というのは、ぼくのOSはminixにいくらか似ているからです(とくに(ごく実際的な理由から)ファイルシステムの物理的なレイアウトは同じです)。bash (1.08)とgcc (1.40)を現在移植中です。. . . [18]

この投稿が少しばかり反応を引き出したので、一月たたないうちにトーバルズは、彼のカーネルのバージョン0.01、すなわち、ありうる最も初期段階の外部レビュー可能なバージョンを、インターネットのFTPサイトにポストした。この過程で、トーバルズはこの新しいカーネルに名前をつけなければならなくなった。トーバルズは、自分のパソコンのハードディスク上には、このプログラムをLinux(リナックス——現在普及している英語的な発音。もとの発音に近いのはリヌックス)という名前で保存していた。Unixの変種に名前を与えるときのしきたりを尊重して末尾にXをつけていた。この名前は「自己中心的」すぎると思って、トーバルズはフリークス(Freax)という名前に変えたのだったが、FTPサイトの管理者に元の名前に戻されてしまった。

トーバルズが、自由なオペレーティング・システムを書いているところだと言い、それをGNUと対比していたことは、彼が完全なシステムを意味していたことを示している。しかし、彼が実際に書いていたものは純然たるカーネルだった。トーバルズはカーネルのほかにはそれ以上書く必要がなかった。なぜなら、彼が知っていたように、他に必要なコンポーネントはGNUや他の自由ソフトウェア・プロジェクトの開発者のおかげで、すでに利用可能になっていたからだった。GNUプロジェクトがGNUシステムのためにそれら全てを使うことを望んで以来、プロジェクトは必然的にそれらを一緒に動作するようにした。トーバルズは継続してカーネルの開発をするかたわら、彼(と後の彼の協力者)もまたそれらのプログラムを一緒に動作するようにした。

当初、Linuxは自由ソフトウェアではなかった。そのライセンスは自由の要件を満たさなかった。商業的配布を認めていなかったからである。トーバルズは企業が急襲して彼からLinuxを取り上げてしまうんじゃないかと心配していた。しかし、GNU/Linuxの組み合わせが人気を獲得するにつれ、トーバルズは、コピーの販売はコミュニティに有益だと考えるようになった。そして、乗っ取りに対する懸念は心配するまでもないと感じ始めた[19]。そこで、Linuxのライセンスを考え直すことにした。

LinuxをGCCでコンパイルしても、LinuxでGCCを走らせても、LinuxをGNU GPLでリリースする法的必要性はなかったが、トーバルズがGCCを使っていることは、彼にとって、他のユーザーへ借りを返すというある種の義務を感じさせた。トーバルズが後に述べたように、「ぼくは巨人の肩の上に乗っていた」のだった[20]。彼が、他の人が同じような支援のために彼をあてにしてきたときに何が起きるか考え始めたのは驚くに当たらない。その決断の十年後に当時の考え方を要約するときのトーバルズには、自由ソフトウェア財団のロバート・シャッセルがこだましているかのようだ。

人生の半年をこれに費やし、それを使えるものにし、何か重要なものをそれから得ようとしたけれど、他人はそれに便乗するだけ、というようにはしたくなかった。ぼくは[Linuxを]みんなに見えるようにして、人々が心に描く内容に合わせてそれを変更したり改良したりしようと思いました。でも、みんながしていることも、ちゃんとわかるようにしたかったんです。自分がいつでもソースにアクセスできるようにしておいて、誰かが改良を加えたら、それを自分のものにできるようにしたかったんです[21]。

リナックスのバージョン0.12は、初めて完全にGCCで動作するようになったバージョンだったが、そのリリースのとき、トーバルズは自由ソフトウェア運動と運命をともにする決心をした。彼は古いカーネルライセンスを捨て、それをGPLに置き換えた。3年たたないうちに、Linuxの開発者はカーネルのLinux 1.0をリリースした。カーネルは、GNUプロジェクトその他からのプログラムで構成された殆ど完成したGNUシステムとともにスムーズに動作した。事実上、Linuxを加えたことにより、Linuxの開発者は、GNUオペレーティング・システムを完成させたのだ。出来上がったシステムは基本的にGNUプラスLinuxだった。しかしながら、トーバルズと彼の友人達は、それを紛らわしくLinuxと呼んだ。

1994年までに、この寄せ集めのシステムはハッカー界で十分な尊敬を勝ち得ていたが、ビジネス界の観察者の中には、プロジェクトの最初の数ヶ月のうちにトーバルズがGPLに切り替えることで、農園を手放すようなことをしていなかったらどうなっていただろう、と思う者もいた。リナックスジャーナルの創刊号で発行者のロバート・ヤングは、トーバルズとのインタビューの席についていた。ヤングがこのフィンランド人プログラマに、リナックスのソースコードの私的所有権を放棄したことを後悔していないのかと聞くと、トーバルズはしていないと答えた。「物事がよく見える後知恵で考えても、そうです」とトーバルズは言った。リナックスのプロジェクトが初期段階で下した「最良の設計上の意志決定の一つ」がGPLだったと彼は考えていた[22]。

この決定が、ストールマンや自由ソフトウェア財団に全くアピールせず、関心もひかなかったことは、GPLの広範な普及を物語っている。ストールマンに認識されるまでに二年かかったが、リナックス開発の爆発性は、かつてのEmacsを彷彿とさせる。しかし、今回、爆発を引き起こした革新はControl-Rのようなソフトウェアハックではなく、PCアーキテクチャ上でUnix風システムを走行させることの新規性だ。動機は違うかもしれないが、最終結果は倫理上の仕様に合致している。すなわち、すべて自由ソフトウェアで構成された完全に機能するオペレーティング・システムである。

comp.os.minixニュースグループへの最初のメールメッセージが示すように、トーバルズがリナックスを、GNU開発者がHURDカーネルを提供するまでのつなぎ以上の何物かだと認識するまで、数ヶ月を要した。トーバルズに関する限り、彼は、単に楽しいだけで分解しては組み立てる子供たちの長い系譜の最近の一人にすぎなかった。とはいえ、打ち捨てられたコンピュータのハードドライブの上で余生を送ることになってもおかしくなかったプロジェクトが、とてつもない成功を収めたことを総括して、トーバルズは、支配権を放棄し、GPLという取引を受け入れる知恵を持っていた若き日の自分を評価する。

1991年のストールマンの科学技術大学での講演と、それに続くGPLへの切り替えという決定を回想してトーバルズは次のように書いている。「ちゃんと理解してはいなかったかもしれないが、少なくとも彼の話の一部は頭の中に染み込んだんだと思う。」[23]

後注

  1. Hal Abelson, Mike Fischer, and Joanne Costello, "Software and Copyright Law," の改訂版 (1997) を参照。

  2. trnキットのREADMEを参照。

  3. 著者へのジョン・ギルモアのEメールから引用。

  4. リチャード・ストールマン他、『GNU一般公衆ライセンス 第1版』(1989年2月) を参照。

  5. David Betz and Jon Edwards, "Richard Stallman discusses his publicdomain [sic] Unix-compatible software system with BYTE editors," BYTE (July, 1986) デイビット・ベッツ、ジョン・エドワード「リチャード・ストールマンがバイト誌編集者と彼のパブリック・ドメインの[原文のまま]Unix互換ソフトウェアシステムについて語る」BYTE誌(1996年7月)を参照。(GNUプロジェクトのウェブサイトに再録されている)

    このインタビューは、GNUプロジェクトを始めた頃のストールマンの政治姿勢について、率直さはもちろんだが、興味深いものを垣間見せてくれる。ストールマンの言い回しの変化を跡付けるためにも有益だ。

    GPLの目的を説明するために、ストールマンは次のように言っている。「ぼくは、知識と情報一般に人がアプローチする方法を変えようとしている。知識を私物化しようとすること、人が知識を使っていいかどうかをコントロールしようとすること、他人が知識を共有しようとするのをやめさせること、これらは生産妨害だと思う。」

    これと2000年8月の著者への次の言葉とを対比されたい。「あなたの思考の中で『知的財産』という用語を使わないように説得したい。それは事態を誤解するように導くでしょう。なぜなら、その用語は、著作権、特許権、商標権を一緒くたにしているからです。これらの効果は非常に異なっています。それらを同時に語ろうとするのは全く馬鹿げています。もし誰かが知的財産について、カッコ付きじゃなくて何か言っているときは、その人はとても不明瞭に考えているので同調すべきじゃないのです。」

    [RMS: その対比は、私が一般化をもっと慎重にするように学んだことを示している。今日では、おそらく私は「知識の私物化」について語らないだろう、それは非常に広い観念だからだ。しかし「知識の私物化」は「知的財産」と同じような一般化ではなく、これら三つの法律の間の違いは、知識の私物化に関する法的問題の理解に決定的に重要だ。特許権は、一定の知識を使うことへの直接的独占だ。それは実に「知識の私物化」の一形態である。著作権は、知識を具体的に示したり解説する作品の共有を妨げるために使われる手法の一つで、全く別のことである。他方、商標は、知識という主題にはほとんど関係がない。]

  6. カリフォルニア大学の「うざったい広告条項」は、その後、問題があることが明らかになった。ハッカーの中には、GPLより自由放任な代替ライセンスを求めて、カリフォルニア大学のライセンスを使う者がいた。このとき、「カリフォルニア大学」というところだけ自分自身や自分の組織の名前に置き換えた。その結果、これらのプログラムを多数使った自由ソフトウェア・システムは、広告の名前を数十個も引用しなければならなくなったのだ。1999年、ストールマン側の数年がかりの働きかけを経て、カリフォルニア大学はこの条項を削ることに同意した。BSDライセンスが抱える問題を参照。

  7. Michael Tiemann, "Future of Cygnus Solutions: An Entrepreneur's Account," Open Sources (O'Reilly & Associates, Inc., 1999): 139 マイケル・ティーマン、「シグナスソリューションズ社の将来性」『オープンソース』(1999年、オライリー・ジャパン)143ページを参照。

  8. リチャード・ストールマン、BYTE誌 (1986年)参照。

  9. HURD の歴史』を参照。

  10. プログラミングの自由同盟プレスリリースによれば、この抗議行動は、十六進プロテスト数え唄が始めて歌われたことで著名である。

    1-2-3-4、弁護士はドアから外に放り出せ
    5-6-7-8、発明しろ(innovate)、訴訟(litigate)をするな
    9-A-B-C、1-2-3 はいらないぞ
    D-E-F-O、ルックアンドフィールはもうお仕舞い

    http://progfree.org/Links/prep.ai.mit.edu/demo.final.release

  11. Reuven Lerner, "Stallman wins $240,000 MacArthur award," MIT, The Tech (July 18, 1990) を参照。

  12. Michael Gross, "Richard Stallman: High School Misfit, Symbol of Free Software, MacArthur-certified Genius" (1999) マイケル・グロス、「リチャード・ストールマン。高校の不適応者、自由ソフトウェアのシンボル、マッカーサー奨学金の天才」(1999 年) を参照。

  13. Linus Torvalds and David Diamond, Just For Fun: The Story of an Accidentaly Revolutionary (HarperCollins Publishers, Inc., 2001): 58-59 リーナス・トーバルズ、デイビッド・ダイアモンド共著『それがぼくには楽しかったから』(小学館プロダクション、2001 年)99 ページを参照。この本はおそらく、トーバルズの人生に関しては正確だが、ストールマンについてはしばしば誤ったことを言っている。たとえば、ストールマンは「すべてをオープンソースにしたがっている」そして「他の人が GPL を使わないことに不平を言っている」と言う。実際には、ストールマンが擁護しているのは自由ソフトウェアで、オープンソースではない。彼は、ほとんどの環境で、作者に GNU GPL を選ぶように勧めるが、全ての自由ソフトウェアを倫理的だと言っている。

  14. 1991 年には自由なものではなかったが、今日、Minix は自由ソフトウェアである。

  15. タネンバウムは、彼の本、『オペレーティング・システム設計と実装』で Minix を「オペレーティング・システム」として記述しているが、本の議論は Unix のカーネルに対応したシステムの部分のみである。「オペレーティング・システム」という用語の慣習的用法は二つあり、その一つが Unix テクノロジーで「カーネル」と呼ばれるものだ。だが、用語が紛らわしいのはそこだけではない。Minix のカーネル部分は、マイクロカーネル・プラス・その上で走るサーバー群から成っており、GNU Hurd・プラス・Mach と同じ種類の設計だ。マイクロカーネル・プラス・サーバーは、Unix のカーネルに相当する。しかし、その本はカーネルと言うとき、マイクロカーネルだけを指している。Andrew Tanenbaum, Operating System Design and Implementation, 1987を参照。

  16. リーナス・トーバルズ、デイビッド・ダイアモンド共著「それがぼくには楽しかったから」(小学館プロダクション、2001 年)128 頁参照。

  17. POSIXは、その後に、多くのコマンドライン機能の仕様書を含むものに拡大されたが、それは 1991 年には存在しなかった。

  18. 前掲書、138 頁

  19. 前掲書、153-155 頁

  20. 前掲書、154 頁

  21. 前掲書、152-153 頁

  22. Robert Young, "Interview with Linus, the Author of Linux," Linux Journal (March 1, 1994) ロバート・ヤング、「リナックスの作者リーナスとのインタビュー」リナックス・ジャーナル(1994 年 3 月 1 日号)を参照。

  23. リーナス・トーバルズ、デイビッド・ダイアモンド共著「それがぼくには楽しかったから」(小学館プロダクション、2001 年)99 頁を参照。